1881(明治14)年 山口県豊浦郡滝部村に生まれる。1903(明治36)年 21歳のとき、神戸市花隈町において西洋雑貨と化粧品の卸商「中山太陽堂」を創業。3年後、第一号製品となる「クラブ洗粉」を世に送り出し化粧品業界における明治の四大覇者にも数えられる大ヒット商品となる。品質へのこだわりを信念とし、先駆的な宣伝活動を通じてクラブの名を世に知らしめた実業家。共存共栄の考えのもと、業界の発展と日本の化粧の近代化に大きく貢献し東洋の化粧品王と呼ばれた。中山太陽堂は、現在、太一の孫にあたる中山ユカリが受け継ぎ、「クラブコスメチックス」として約120年の歴史を刻み続けている。
PICK UP
英国式 クラブ美身クリーム
クラブ洗粉発売から5年後の1911(明治44)年、英国式 クラブ美身クリームを発売する。
西洋の最先端の技術を取り入れたこのクリームは、中山太陽堂の大黒柱商品として成長する...
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NOVEL
「コスメの王様」ついに完結!
小学館より書籍発売中!!
国産化粧品開発と宣伝広告に生涯を捧げた青年と花隈芸妓の物語
2022年4~11月に産経新聞に連載された小説「コスメの王様」が単行本書籍となり2023/3/15に発売。
当社創業者中山太一をモデルとしたフィクション小説で、新聞連載時から大きな反響を頂いております。
太一が取り組んだ製品作りにかけた真心と斬新な宣伝手法を題材に、
高殿円先生が女性の自立と様々な人間模様を壮大且つ繊細に描いた物語です。
ぜひお手にとってお楽しみください。
■発行元 株式会社小学館
■作家 高殿 円
■発売日 2022年3月15日
■価格 1,600円(税込1,760円)
■ページ数 四六判 344ページ
【ストーリー】
「ほんまに、きみが愛おし!」
時は明治の世。秀才ながらも山口の家族を支えるため、進学をあきらめ単身神戸に出てきた少年と、
牛より安い値段で花街に売られてきた少女。
その二人の出会いは、やがて日本の生活をも一変させる発明、大ヒット商品誕生へとつながっていく。
激動の明治・大正・昭和を「真心」をもって駆け抜け、大阪で100年を超える会社を創業した「東洋の化粧品王」の一代記!
公式SNS:
小説家 高殿 円 氏
神戸市出身。エキナカ書店大賞受賞をはじめ女性読者の支持が厚い作品の中で 「トッカン特別国税徴収官」 「上流階級富久丸百貨店外商部」はテレビドラマ化され、2019年産経新聞連載/文藝春秋刊「グランドシャトー」 では、大阪を舞台にした女性視点の一時代を描いた作品として好評を得た。
【受賞】
2000年『マグダミリア三つの星』で第4回角川学園小説大賞奨励賞を受賞しデビュー
2013年『カミングアウト』で、第1回エキナカ書店大賞を受賞
【代表的著書】
「トッカン」シリーズ/早川書房
「上流階級 富久丸百貨店外商部」シリーズ/小学館
「剣と紅 戦国の女領主・井伊直虎」/文藝春秋
「グランドシャトー」/文藝春秋 ※産経新聞全国版で連載小説~書籍化
【ドラマ化】
◇トッカン特別国税徴収官 日本テレビ/2012年7月~ 主演 井上真央
◇上流階級富久丸百貨店外商部 フジテレビ/2015年1月 主演 竹内結子
【映画】
◇Messiah メサイアシリーズ 2011年10月~2015年11月 3作公開
【漫画原作】
◇魔界王子 devils and realist (雪広うたこ・画)
【代表的著書】
「グランドシャトー」/文藝春秋 2019年11月刊産経新聞全国版 連載小説2018年~2019年
「上流階級 富久丸百貨店外商部」シリーズ/小学館
「剣と紅 戦国の女領主・井伊直虎」/文藝春秋
「トッカン」シリーズ/早川書房
【産経新聞掲載情報】
※画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます
令和3年3月18日付
産経新聞(朝刊)1面
令和3年3月18日付
産経新聞(朝刊)第3社会面
令和3年10月17日付
産経新聞(朝刊)文化面
弊社オフィシャルブログの関連記事はこちら
第11回
【コスメの王様】ついに完結!!
第10回
【コスメの王様】空から舞い落ちるビラは、かつてのビラではなかった
第9回
【コスメの王様】苦境にあっても心ぶれずにやり抜く
第8回
【コスメの王様】腰を抜かしてしまいそうな驚くような展開
第7回
【コスメの王様】3年で900万個ってヤバいです。
第6回
【コスメの王様】危機的状況、そして仲間や周りの方々との絆
第5回
【コスメの王様】自社製品第一号が完成
第4回
【コスメの王様】国産品の水白粉の国内独占販売がスタート
第3回
【コスメの王様】永山利一がついに自分のお店を!!
第2回
【コスメの王様】「自利利他」「共存共栄」
第1回
創業者「中山太一」をモデルにしたフィクション小説「コスメの王様」が産経新聞で連載スタートです
ABOUT
創業者 中山太一の源流
1881(明治14)年、本州最西端に位置する山口県 豊浦郡滝部村に12人兄弟の長男とした生まれた中山太一。中山家は、農業の傍ら呉服や荒物、仏書・仏具の商いをしており、村でも名が通る裕福な家庭であった。しかし、村で起きた2度の火災で家が焼け、兄弟が多かったことも重なり小学校3年になる頃には、その暮らしぶりは明らかに苦しくなっていた。太一は上の学校への進学を断念し、長男として両親や兄弟のために、家業や近所の仕事を手伝う日々を過ごしていた。
14歳のとき、自身で学問を続けていた太一に心痛めた父小三郎は、長州の学者 桂彌一(かつらやいち)のもとで実学を学ばせることを決意。毎朝3時に起床し牛の世話や乳しぼり、遠く下関への配達をしながら多様な学問や生活全般に関する教えを学んでいった。のちに雑誌※1で“私の生涯で桂翁の薫陶を受けた※2経験が自分の運路を誤らせなかった偉大な力となっていると述べている。
その後、福岡の門司に出向き洋食店、雑貨商・石炭商などを経験したのち、大分の薬種問屋「志賀商店」に就職。調剤見習いとして薬剤の知識を学ぶ傍ら、店主 志賀恒太郎より商店経営のコツや処世術など、人生の指針となる様々な学びを得たのである。
店主よりその働きぶりが見込まれた太一は、神戸支店の支配人に抜擢された。お店では薬の他に、大分や灘の地酒を扱っており、酒利きをすることも大事な仕事であった。神戸は貿易の中心地として栄えており、店先には舶来品が並ぶ刺激と魅力あふれる街だった。こうした中、心に抱いていた「独立して実業家になる」という夢が日増しに膨らみ、志賀商店をわずか半年で退職することになる。そして、夢の実現に向けて再出発しようとした時、出資者があらわれ1901(明治34)年、神戸市花隈町で雑貨・化粧品の行商を始めることに。これが、中山太陽堂の創業へとつながっていく。
太一の独立にあたり店主より贈られたはなむけの書には、「百事迅速を旨とすべし」「進んで取るの勇気をやしなうべし」など、十六に渡る言葉が連ねられていた。太一はこれを座右の銘にし、のちに中山太陽堂の店訓(のちに社訓)とした。
※1 『私の経営哲学』
※2 人格者から影響を受け感化されること
左より 桂彌一 父小三郎 太一<松崎町太一自宅にて>(昭和初期)
中山太陽堂店訓(昭和初期)
1800s
1881年(明治14) 0歳
山口県豊浦郡滝部村に父小三郎・母イ子の長男として生まれる
1892年 (明治25) 10歳
開誘小学校(現・滝部小学校)温習科を終了
1896年 (明治29) 14歳
郷土の先達として知られる長府の桂彌一翁の膝下にて薫陶を受ける
1897年~ (明治30~) 15~19歳
故郷から門司へ。その後、大分に移り薬や酒を扱う薬種問屋「志賀商店」に就職し、神戸支配人に抜擢されるが半年で退職
1900s
1901年 (明治34) 20歳
神戸市花隈町にて洋品雑貨・化粧品の行商を始める
1903年 (明治36) 21歳
西洋雑貨・化粧品の卸売商「中山太陽堂(現:クラブコスメチックス)」創業
1904年 (明治37) 22歳
「パンゼ水白粉」の日本全国一手販売を契約し販売開始
1906年 (明治39) 24歳
帝国化粧品倶楽部をおこし、第1号製品「クラブ洗粉」発売
クラブ・CLUB・双美人を商標登録
1910s
1910年 (明治43) 28歳
中古のフォード自動車を購入し宣伝カーとしても活用する
無鉛の「クラブ白粉」発売
イギリスより薬学士・化粧品技師「P.L.スミス」招聘
1911年 (明治44) 29歳
「英国式 クラブ美身クリーム」発売
飛行大会にいち早く目をつけ宣伝を始める
上海 漢口にて佳人牌(双美人牌)化粧品を発売開始し中国市場へ進出
1916年 (大正05) 33歳
化粧順序を路線図に見立てた鉄道式図解広告で近代的化粧法を提案
1918年 (大正07) 36歳
大阪市南区水崎町(現:浪速区恵比寿西)に東洋一と呼ばれる工場・本店竣工
1920s
1920年 (大正09) 38歳
ルブランの母と子をデザイン起用した「カテイ石鹸」発売
大阪化粧品同業組合が設立し、初代組合長に就任
1922年 (大正11) 39歳
平和記念東京博覧会でカフェーや美粧院を併設した特設館設置
プラトン社(出版社)より文芸雑誌『女性』創刊
1922年 (大正11) 40歳
「六甲太陽閣(中山太一別邸)」竣工 大阪市の迎賓館としても提供する
1924年 (大正13) 42歳
創業20周年記念事業として大阪の堂島ビルヂングに「中山文化研究所」開設
中山家三兄弟(太一・豊三・喜助)滝部小学校の本館と東側校舎の新築費用を寄付
仏国政府よりシュヴァリエ・ドランナン勲章受章
1929年 (昭和04) 47歳
中山壽一(後の創業家2代目社長)誕生
1930s
1935年 (昭和10) 53歳
大阪府知事より能率功労者として金杯を受ける
「薬用 クラブ美身クリーム(現ホルモンクリームの前身)」発売
1939年 (昭和14) 57歳
貴族院議員、大阪化粧品工業組合理事長に就任
「株式会社中山太陽堂」創立 初代社長に就任(資本金5,000千円)
1940s
1942年 (昭和17) 60歳
日本能率協会 理事に就任
1948年 (昭和23) 66歳
日本初のヘヤークリーム「クラブ ヘヤーフィクサー」発売
1950s
1952年 (昭和27) 70歳
全国代理店 中山太一記念会より「中山太一像(胸像)」贈呈式挙行
近畿化粧品工業会 名誉会長に就任
1953年 (昭和28) 71歳
世界初シリコン配合ファンデーション「クラブ ビフナ」発売
1954年 (昭和29) 72歳
臨時株主総会にて相談役に退く
1956年 (昭和31) 74歳
死去(享年75歳)全国化粧品業界による初の業界葬と社葬との合同葬
が執り行われる
中山太一が紹介されている書籍
『広告20世紀』広告批評アーカイブ
発行所:グラフィック社編集者:天野祐吉 島森路子発行日:2014年9月25日
掲載頁162頁 中山太一 美を万人に解放する 他
『企業家123人』ニッポン近代開き
発行所:朝日新聞社(*販売終了)発行日:1994年2月5日
掲載頁216~217クラブは倶楽部にあらず太陽の時代に人一倍の言語感覚
『夢チャレンジ きらり☆山口人物伝 VOL.8』
発行所:公益財団法人 山口県ひとづくり財団発行日:2015年9月30日
掲載頁67~83ふるさとと両親を大切にした“東洋の化粧王”
中山太一が展示されている施設
大阪企業家ミュージアム
運営
大阪商工会議所
ホームページ
https://www.kigyoka.jp/
施設概要
大阪産業界の発展に大きな貢献をした105名の企業家たちを紹介~第2ブロック 大衆社会の形成 消費社会の幕開け~中山太一 化粧品産業の近代化とメセナによる社会貢献
下関市立豊北歴史民俗資料館「太翔館」
運営
下関市
ホームページ
http://www.h-rekimin.jp/
施設概要
1924(大正13)年 中山太一ら兄弟が母校「滝部小学校」の本館と東側校舎の新築費用を寄附1979(昭和54)年 山口県の有形文化財に指定される。2011(平成23)年 大正期の姿に可能な限り復元され、資料館として中山太一を紹介している
GALLERY
中山太一の功績
第1章 太一のモノづくりと商売への信念
太一の信念は品質へのこだわり。これこそが、商売のベースとなる信頼につながると、常に現状に満足することなく改良を繰り返し、商品を進化させていった。これが「品質のクラブ」として受け継がれていく。
1. 西洋雑貨・化粧品の卸商を開業
新聞広告 パンゼ水白粉『大阪朝日新聞』(明治40年)
新聞広告 パンゼ水白粉『大阪朝日新聞』(明治39年)
1903(明治36)年に創業した中山太陽堂ではシャツ・ネクタイ・鏡などの西洋雑貨と石鹸・歯磨・クリーム・香水などの化粧品を取り扱っていたがそのほとんどは舶来品であった。そんな中、太一は国内製造の「パンゼ水白粉」に目をつけた。上品な香りとモダンなフランス風のガラス瓶入りで、この商品に大きな手応えを感じた。しかも当時、問題視されていた鉛※1を含んでいなかった。太一は、「パンゼ水白粉」の全国一手販売※2の契約を成立させるとともに、自ら商品の良さを伝え、東京の三越呉服店(のちの三越百貨店)への販路拡大に成功した。しかし、順調に売上を伸ばす中、メーカーに品質向上を求めたが一向に改良する兆しがなく、製造業への思いが膨らんでいった。
※1 鉛を含んだ白粉は、ツキ・のび・もちが良い反面、鉛中毒が問題視されていた。
※2 日本全国において独占販売することができる
2. 卸から製造へ、日本人の肌に合う商品をつくる
第一号製品 クラブ洗粉(明治末)
雑誌広告 クラブ洗粉『婦人世界』 第一巻・第七号(明治39年)
創業当時は、外国から輸入されていた舶来石鹸が人気を集めていたものの高価なうえ日本人の肌に合わず、肌アレで悩む人が多かったという。「商品に偽りなきものは最後の勝利者なり」を信条とする太一は、肌にやさしく、かつ舶来品に負けない製品を自らの手でつくることを決意。目をつけたのが日本人に古くからなじみが深く使い慣れてきた「洗粉」。研究や試作を繰り返し、創業から3年後の1906(明治39)年、なめらかな使用感と洗浄力、そして芳醇な香りを兼ね備えた第一号製品「クラブ洗粉」を誕生させた。天然成分を原料とした近代的な化粧品の開発に成功し、
発売から約1年間で400万個を売り上げる大ヒット商品となり、“湯屋※1の前を通るとクラブ洗粉の匂いがする”と評判に。その後、白粉の御園・歯磨のライオン・化粧水のレートと並ぶ明治の四大覇者のひとつに数えられている※2。クラブ洗粉は100年以上経った今もほぼ変わらぬ処方で作られ、太一の思いを受け継いでいる。
※1 現在の風呂屋
※2『平尾賛平商店五十年史』(昭和4年)より
3. 欧米の最先端技術を導入、世界に通用する商品づくり
薬学士・化粧品技師 P・L・スミス(明治末)
英国式 クラブ美身クリーム(明治末~大正初期)
創業当時、国産化粧品の品質はまだまだ発展途上で、西洋が最先端の技術を誇り、舶来化粧品への憧れが大きかった。太一は世界に通用する品質の商品を目指し、1910(明治43)年より西欧から専門の技師を迎え入れていく。クリームや石鹸の研究開発をはじめ、日本人技師の養成や積極的な海外派遣など、ひたすら優良品づくりに力を注いだ。太一は先輩 増田義一※1の「事業を大きくしようと思うなら自分より偉い人を使え」の助言を長きに渡り守り続け、人材確保には特に熱心に取り組んだ。そうして、商品づくりの基礎を確立させていく。最初に迎えたイギリスの薬学士・化粧品技師「P・L・スミス」主導のもと誕生した「英国式 クラブ美身クリーム」は現在に受け継がれている。
※1 愛読書『実業之日本社』の主幹
4. 日本の化粧品産業の近代化を牽引する
工場内作業風景(昭和初期)
東洋一と呼ばれた工場全景(大正中期~昭和初期)
1918(大正7)年、日本における化粧品業界初の本格的近代工場を設立。当時、世界最高水準の生産設備を備え、最新のベルトコンベヤーシステムで生産ラインを自動化。また、能率研究の考えを取り入れ、作業工程から建物構造に至るすべてにおいて、効率的に物づくりができるしくみを採用。作業改善など効率化により得られた利益は、消費者には商品の増量等で、従業員には賞与金として還元された。太一はこの工場をできる限り人々に公開しており、業界関係者だけでなく皇室をはじめ高橋是清や新渡戸稲造など、様々な要人が見学に訪れている。これは宣伝のためでもあったが、太一の「日本全体の技術の向上が世界レベルでの優良品づくりにつながる」という使命感によるもので、化粧品産業の発展に大きく貢献したのである。
第2章 日本で先駆的な存在を示した広告宣伝
アイディアマンの太一は、広告がもつ重要性を早くから見出し、当時斬新な発想で多様な媒体を活用した宣伝活動を展開。時代をリードし、日本の近代広告史に名を残した。
~ 空からの宣伝 ~
金沢飛行大会の様子(大正初期)
飛行機を使った切手型広告(大正初期)
日本で初めて飛行機が飛んだ1910(明治43)年の数か月後に早くも“飛行機”に着目した宣伝記録が残っている。時代の先端をいく飛行機は、多くの人々の注目を集めることから太一は格好の媒体と考え、各地で行われた飛行大会※1を宣伝に活用している。1913(大正2)年、京城(現在のソウル)で行われた飛行大会の広告にはクラブのチラシ数万枚を数日間に渡ってまくという記載があり、そこには“空中に於けるクラブ本店 破天荒の壮挙※2”と記されている。そのほか、「クラブはみがき」と書いた飛行機を飛ばしたり、空から景品引換券を混ぜたチラシをばら撒き、お店に持参すると景品がもらえるといった展開も。日本で初めてアドバルーン(広告気球)を上げたのはクラブとも言われている。1910(明治43)年、業界に先駆けて広告部をつくるとともに、宣伝だけでなく販売促進とも連動させた手法をこの時代から取り入れている。
※1 滞空時間や飛行の高さなどを競う大会のこと
※2 近来まれにみる快挙のこと
第3章 文化、教育への思い そして社会貢献へ
企業メセナ※1活動は、まさに太一の理念の証といえる。女性の内外の美しさを願い、文化生活の向上が豊かな文明社会を築くという志を掲げ、利益を様々な形で社会に還元していった。※1 企業が資金を提供して文化・芸術を支援すること
~ 出版社「プラトン社」 ~
雑誌『女性』新年特別号(昭和2年)
雑誌『苦楽』新年特別号(大正14年)
直木 三十五写真提供 文藝春秋
与謝野 晶子写真:国立国会図書館ウェブサイトより転載
中山太陽堂の宣伝戦略の一環として、PR誌を刊行しようとした太一の意向を受け、実弟 豊三がプラトン社を立ち上げた。そして、1922(大正11)年文芸雑誌『女性』、翌年には娯楽雑誌『苦楽』を創刊。裏表紙や中面にクラブ化粧品の多彩な広告が掲載される中、仕様や内容は本格的な文芸雑誌となった。『女性』の創刊号巻頭は“21世紀は婦人の世紀”から始まり、女性の生き方を後押しする新しい時代を感じさせるものであった。執筆は谷崎潤一郎や与謝野晶子、直木三十五や北原白秋など、そうそうたる顔ぶれの作家が名を連ねた。また、図案家(デザイナー)では、山六郎や山名文夫といった人物を輩出し、洋装の女性を描いたモダンな表紙や挿絵からもセンスの良さがうかがえる。
第4章 その他
~ 双美人(そうびじん)マーク・エピソード ~
2人の女性を描いた「双美人マーク」は、1906(明治39)年、クラブ洗粉の誕生とともに産声をあげた。モデルとなったのは旧加賀藩主(現在の石川県)前田利為侯爵(まえだとしなりこうしゃく)の「渼子(なみこ)夫人」。旧家臣だった日本画家の中島春郊(なかじましゅんこう)が描いたと伝えられている。 爽やかで気品ある表情は、いかにも上流家庭の雰囲気を感じさせ、頭には大きな桜の花冠、胸もとにはすみれの花を配した上品でモダンなデザイン。太一は、商品の独自性を象徴し、企業イメージを表現するシンボルとしてこのマークを商標登録。
現在、“ひとりよりふたり、より多くの女性に美しさをお届けしたい”という願いが込められ、CLUBグループのシンボルマークとして、受け継いでいる。
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